肉体の衰えと精神の同調、そしてそれに抗う拡張された日常

最近めっきり体にガタが来始めていると感じる。自分の肩骨折やふくらはぎ筋断裂の件もうそうだが、周りの同年代もばりばり怪我や病気をしているのをみてもそう思う。それは年齢だからある程度詮無きことではあるのだろうし、自然の摂理から言って至極当然のことなのは理解できる。それでもやはり自分の行動と可能性を日々ガリガリと削られていくのは寂しさと不安を覚えてしまう。

この、寂しさと不安を覚えるということ、これもしかたのないことなのだが、なかなか大変やっかいであって、かなり気をつけないといけないことなのだと思うのである。

肉体の限界や体力低下すると何が起こるかというと、日常していること以外の身体を駆使する行動が容易ではなくなるということなのだ。急にサッカーや野球やったら確実に怪我するし、スキーをやったって肉離れしてしまう。一方で歩行や短距離の無理のない走行、自転車運転等は日常的に行っているため、筋肉や関係する関節はその動作に最適化されているのか、基本的に無理なく行えてはいる。しかしちょっとバランスを崩すなどしてあわてて手や足を突こうとすると、その緊急動作を維持、完了するための筋力や柔軟性はその体からはすでに失われているため、大きな怪我に繋がったりする。(そして肩の骨を折る)

また、実際に怪我をしたときも、若いときは怪我している部位が不自由なだけでさほどに苦であるとは感じなかったのだが、去年の肩や今年のふくらはぎのときにはこれは相当不自由であると感じたりもした。そうなると、怪我をすることにそれなりの警戒感を持つ。

そしてこの認識は具体的な恐怖へと繋がる。人がなぜ自転車に乗れるかと言うと、練習するなかでさんざん転ぶため、「この乗り物で転んだろころでたいした怪我はしない」と無意識に理解しているからではないだろうか。そして現在の身体能力ではその認識が間違っているわけで、それに気づいてしまったということなのだ。「これを失敗したら怪我をする!」と分かっている綱渡りを何食わぬ顔で実施できるのは、その道のプロかド阿呆だけであろう。私は阿呆ではあるがド阿呆ではないつもりだ。そんなド阿呆ではないヒト科の生物である私は、生物としての生存本能の赴くままに日々の行動に注意を払うようになった。横断歩道の青点滅をみて駆け足で渡ろうとするとき、電車に間に合いそうだと階段を全力で上ろうとするとき、ふくらはぎや膝を痛めるかもしれない、という思いがよぎり、その行動は抑制される。

このように日々行動に注意を払うようになると、その結果として、無理な行動はしなくなるため、余計に身体能力がは衰えていくのではないか。衰えていくと、行動が制限されてできることが限定されて行く。出来ることが限定されると、日常的な行動範囲が縮小し、怪我のリスクは高まり、それに気づき恐怖で萎縮し行動を抑制していく。

 

 

 

 

 

 

いやーんこわーい!

ということで、日々注意はしないといけないのだけれど、恐れすぎてもだめだと思うので、日常を拡張していくことを思いついた。すなわち、生きていくうえで必要な最低限の行動、たとえば通勤とか仕事とかのなかで、一見まったく意味のない行動をしてそれを日常に組み込んでしまおうと思うのだ。なので、仕事中に逆立ちしようとしていたり、会社の階段を後ろ向きに昇り降りしていたりしても、そっとしておいていただけるとありがたいのである。

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