病むということからの

最近、体罰とかいじめとか自殺とか丸刈りとか、そういった社会と心の問題がいろいろと世間をにぎわせてるところ、オレが思うことは、人というのは多少なりとも病んでいる必要があるのではないということです。それは、自分という個人と、社会やコミュニティといった自分が所属しなければならない(するべき、したほうが都合の良い)共同体との間には、かならず思いの違いや理解不能で納得のいかないことがあるわけで、それでもその共同体の一員としてやっていこうとするためには、そういうものと折り合いをつけるために、心のある部分を病ませる必要があるのではと思うわけです。

そもそも共同体の一員であり続ける必要があるのか、という判断が正しく望ましくできていれば大きく病むことはないと思うわけですが、それでもその判断に至る過程で、心の中でいろいろなものを捨てたりしぶしぶ受け入れたりして、そのことで心を傷つけていきます。そういった行為は、自分にとっては自覚の有無はあるにせよ間違いなく心の負担になるわけで、負担を自らにかけ続けることへの不安や恐怖から自分を守るために、「病む」ことで鈍感になれるのではないかと考えます。必要以上にはしゃいだり、思考停止したり、わざとルールから逸脱して快感を得たり、といったことで、こころのバランスをとるイメージです。

鈍感になれば、取捨選択それ自身の痛みは残るものの、痛むことを不安に思う度合いが小さくなり、ストレスが減るため、共同体の一員としてやっていくことについての不安が減少しますから、共同体の一員であることをやめるといった判断もしない傾向になりそうな気がします。その結果、より鈍感になる必要が生じ、さらに病んでいく、という負のスパイラルなのかもしれません。

また、病むことそれ自体を問題としてしまうと、「病んでいる=得体が知れない、狂ってそうで怖い」、といった恐怖が嫌悪感となり差別的議論へ進んでしまうわけで、良いことではない気がします。人間は少なからず病むのだから、ほどよい病み方や病み具合をするためにどうすればいいか、具体的にどのようにトレーニングすればいいか、病みすぎた人をどう救うか、といった考え方が必要ではないかと思います。

今のところ自分にはその具体的アイデアはありません。無責任ではありますが、専門家の方に期待します。

その代わり、少し脱線しますが、ITによるシステムの設計や運用にかかわる人間として、少し違った目線で思うことがあります。

病み方や病み具合は人それぞれで、そこは生まれつきの素質や環境、経験といったものによって左右されることです。共同体に深刻な迷惑をかけるほどの病み方をされると、共同体の維持のためにその者を排除することは必要なことであるため、それ自体は否定しません。しかしその排除行為は、嫌悪感由来のものではなく、善意の結果で行われなければならないと考えます。誰もが病むことを前提とし、その対象者についても病み方や病み具合の修正を試み、八方手を尽くした結果として、やむなく行われるものでなければならないと思うのです。そして、この意識は共同体の隅々まで共有されていなければなりません。さもないと、いつか必ず「これくらい狂ったら排除」という定量的判断で排除行為が行われ、定量的な判断は容易に自動化されシステムとなり、「思い」のこもらない排除行為になってしまいます。

現実的には、時間や金といったコストの問題がありますから、定量的な判断は効率良く機能するため、これを利用するのはしかたのないことです。だとしても、だからこそ、その前提となる「思い」を忘れないことが、とても大切なことだと思うのです。「思い」を理解したうえで運用されるシステムであれば、システムのエラー、システムの破綻、システムからはみ出た者が現れたとき、大きく混乱することなく次の判断ができるのではないでしょうか。

システムが巨大化するほど分業が必要となり、分業化された仕事に従事するものは全体を把握する意味を持たなくなります。その結果、「思い」は失われやすくなりますから、そこをどうフォローするかについても、システム運用の中に含めていく必要がありそうです。

なんか長くなってきたのでまとめると、システムを考えるのも作るのも運用するのも、人であるということを忘れてはいかんなーって思いました。おしまい。

Comments (1)

  1. 9:01 PM, 2013年2月3日teppei  / 返信

    興味深いお話で。(長げえ~)

    その人自身の”こころ”は、その人に重要なもの、重要でないものを決めてしまいます。

    他人との付き合いの中で「ああ、この人にとってはここが大切なんだな。」という
    風に思うのですが、どうしても「いやしかし、俺にとってはどうでもいいんだ。」
    ということになる場合もあるのでしょう。当然「ああ、それは俺も思う。同意」という
    ケースも多々ありますが。

    「どうでもいい。」で終わっとけばいいんだけれど、終われないパターンもある。
    どうでもいいと思うのに受け入れなきゃならないことが出てくる。

    それが蓄積されていくと「俺にとってはどうでもいいんだけど、なんか大切だっていう
    もんだから・・・」ということで、”自分の大切なもの”と”他人の大切な
    もの”がこころの中に共存していくことになる。

    ”こころ”ってのは一貫性を保とうとするので、一貫性を突き破るような二者が
    共存するのは避けたいと思ってしまう。このことが”ストレス”と呼ばれたり。

    一貫性が破綻するほどの状況になるのをゲシュタルト崩壊とかいったり、
    物凄く一貫性が崩れるのを修正する作用が強い人を適応障害といったり。

    もちろん一貫性を保てるように自分で調整する機能も”こころ”には備わってる
    んだけれど、最近だと、一貫性が保たれるようにその人の”こころ”を少しづつ
    変えていくことを”コーチング”なんていう言葉で言ったりも。

    ・我々の目指すゴールはここです。
    ・あなたの目指すゴールはここです。
    ・お互いのゴールを、目の前の事は置いておいて長期的な視点で一緒に見てみましょう。
    ・我々のゴールと、あなたのゴールの重なる部分はこういうところです。
    ・我々がゴールに辿り着くために重要なこととして考えているポイントはこれです。
     それはあなたにとって重要なポイントになるかもしれません。

    ってな具合のやつ。

    坊主になった人の親御さん、喫茶店をやってます。

    自分はなんとなしにそのお店のベタなカレーとか好きなんだけれども、
    坊主の後に「いや、坊主ヤバいっすね。」という風に来店する気にもなれず・・・。

    今日はスターバックスに行ってしまった。

    ・店主としてはたぶん、お客にサービスして喜ばれたいだろう。
    ・親としてはたぶん、娘が不幸にならないでもらいたいだろう。

    こういう状況の中で「いや、坊主ヤバいっすね。」という客が来たりすると、
    なんともいえない感じになりそうな予感が。

    このまま”そろそろまた行ってもいいかな。”と思えるようにならなければ
    行かないだろうし、”よし、祭りと同じだ!俺も坊主にして仲間になるぜ!!!”
    という間違ったゴールを設定してしまえば明日にでも行くだろうし。

    でも”よし祭りだ!”というのが自分の”こころ”と違うのならば、やっぱり
    一貫性が崩れてストレスになるんだろうし。

    ※俺は店でカレー食いながらコーヒー飲んでマターリしたかっただけなのに、
     なんでお祭り気分で店主の娘を推さなけりゃならないんだ・・・?となる。

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